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世界人道デー:自分にできる貢献をする

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  • 8月18日
  • 読了時間: 5分
UNMIK HQ
国連コソボミッションの玄関にて(プリシュティナ、2001年12月)

世界人道デー:回想

世界各地で人道的な危機が続いています。「危機」という使い古された言い回しをこうして書いたり使うのがはばかられるくらい、危機が普通になってしまっていて、そのことが本当に恐ろしいです。そんな中、今日は世界人道デーに想いを馳せます。


私が「人道支援」の意味を深く考えさせられる経験を初めてしたのは、2003年8月19日(これが世界人道デーが8月19日である理由)。イラク、バグダッドの国連事務所が爆破され、22名の職員が命を落としたときです。その中には、ジャン・セリム・カナーンも含まれていました。


当時の私は、隣国ヨルダン・アンマンでUNHCRのJPOとして二年目を過ごしていました。一年目はサダム・フセイン政権に迫害されたイラク難民の第三国定住を支援する、いわば「通常の」業務でしたが、2003年に入ると状況は大きく変わり始めます。数か月後にはイラク国境近くのルウェイシェッドで、イラクからの避難民のためのキャンプ設営をはじめとした緊急援助に携わるようになっていました。


Rwayshed camp
設置されたテントをバックに
Rwayshed camp inside tent
テントの中で避難民の方との聞き取りの準備をしています

そして8月までには、キャンプは本格的に稼働を始め、緊急対応の職員も派遣されてきたので、私はアンマンでの通常業務に戻っていました。そんな中で耳にしたのが、バグダッド爆破事件のニュース。すぐにコソボ時代の仲間との間でメールが飛び交いました。「ジャン・セリムがいたようだ」と。


コソボでの遭遇

ジャン・セリムと出会ったのは、2001年の秋から冬にかけてのこと。コソボ・プリシュティナで、私が尊敬する上司バジル・コムナスのもとでUNOPSのチームの一員、国連ボランティアとして働いていたときでした。任期の終わり頃、ジャン・セリムともう一人の同僚が事務所を訪ねてきたのです。二人はバジルと古くからのつながりがあるようで、その関係を私は羨ましく、そして尊敬の念をもって眺めていました。


後から同い年だと知って驚いたのですが、ジャン・セリムはすでに周囲から信頼される人道支援者でした。ほんの二、三言しか言葉を交わさなかったけれど、彼の雰囲気、堂々とした姿、そしてわずかに漂う憂いのようなものが心に残りました。彼の印象はこれから人道支援の道を歩み始める自分への大きな励ましでもありました。


その後、アンマンで彼の死を知らせるメールを受け取ったときは、現実と思えず、「え、彼のような人がそんな死に方をしていいの?」という思いがまず心を駆け巡りました。メールから察するに、彼と実際に共に働いた仲間たちの悲嘆は深く、切実なものでした。ほんの少しのやり取りをしただけの私にとっても、少しずつ衝撃が実感に変わっていきました。「人道支援」に携わるということはどういうことなのかを、初めて深く考えさせられたのです。


後藤健二:人道ジャーナリスト

毎年8月19日が来るたびに、もちろんジャン・セリムを思い出します。そして同時に、もう一人、後藤健二さんのことも。私は彼を「人道ジャーナリスト」だったと思っています。惜しくも、そして悔しくも、2015年、シリアで殺されました。


彼とは二回、両方ともUNHCRの事務所で文字通りばったり会ました。最初は2002年のアンマン。UNHCR代表が「日本人のジャーナリストが来たからジョインして」と声をかけてくれて、その部屋に入ると、優しい表情をした健二さんが座っていました。もう一度は2004年、ザンビアのルサカ。UNHCR事務所の廊下でばったり会ったのです。その瞬間、健二さんが、「あ〜!」と私の顔を見て言ったのを覚えています。今度は、アンゴラ難民の帰還を取材するために来ていたのです。


それから年月が過ぎ、2015年1月、私は彼を救いたい一心で、#IamKenji キャンペーンに参加していました。彼は残虐に命を奪われてしまいましたが・・・。その顛末はまたいつか書きたいと思います。


Restaurant in Lusaka
後藤健二さんと(ルサカ、2004年)

小さなことでも、自分にできる貢献をする

今年の8月19日の朝、私はふと思い立って栄花均さんにメッセージを書いていました。彼が北海道で営む宿泊施設についてたずねたかったのです。思えばこの日の朝に栄花さんにコンタクトしようと思ったこと自体、何か意味があったに違いないですね・・・。


メッセージのやり取りの途中で、栄花さんがバグダッド爆破事件の生存者だったことをふと思い出し、そのことを書き添えると、あの日は


「第二の誕生日だと思ってます。」


とのこと。


今、世界は人道援助の危機というよりも崩壊に近いと言いたくなるような状況に覆われています。そんな中、無力感や時に絶望に近い感情に押しつぶされそうになることもあります。けれど、ジャン・セリムや後藤健二さんのような真の人道支援者との出会いを思い返すと、彼らの遺産というか、彼らから受けたインスピレーションを大事にしていきたい、改めてそう思います。


彼らを思い出すことで改めて心に響いてくるメッセージはシンプル。


「自分にできることをする。小さなことでも、自分にできる貢献をしていく。」


かつて人道支援現場で「直接的に」働いていた自分から、少しずつ進化(と思いたい)し、変容した今の私にとっては、それはコーチ、ファシリテーター、そして教師としての仕事を通して貢献をしていくことです。


一緒に活動しませんか?ぜひメッセージください。chizu[at]synergyfacilitation.com

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