教師として言うべきことを言っているか
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- 7月6日
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ジャシンダ・アーダーンの本
写真にあるジャシンダ・アーダーンの本、私はまず、先に発売されたオーディオ・ブックを聴きました。英語の本ではよくあることですが、ジャシンダ本人による録音なのがうれしかったです。
一通り聴き終わり、心に残った箇所がいくつかある中で、下のエピソードについて思いを馳せています。
大学生の時、留学生としてアメリカのアリゾナで勉強したことがあったそうですが、2001年の9月11日、いわゆる「ナイン・イレブン」はこの時に起こりました。
その直後のある授業中、学生と教授がその時の気持ちを共有し合う時間が持たれました。そこで学生の一人が、ジャシンダにとって「え?」と思うような発言をしたのです。それは、ある人種の人たちに関してステレオタイプと受け取られかねない発言でした。
そこで彼女は、とっさに教授の方へ目を向けました。彼が学生の発言に対し、例えば「そのような発言はするものではないよ」というような、学生を諭すような返答を期待したそうです。
ところが、彼女の意に反して、教授はただ頷いて学生の言葉を聞いていただけだったそう。
そこで彼女は、普段の彼女ならしなかったことをしてしまった。「してしまった」というのは、彼女自身、本の中で、"I suppose it was a mistake to raise my hand. Some part of me knew this even then." (手を挙げたことは間違っていたと思う。あの時も、私の中の一部では間違いだと分かっていたー私訳)と書いているからです(英語の本、105ページ)。
手を挙げて、彼女自身の思うところを、ニュージーランド訛りの強い英語で発言した。なんとか、思いを紡ぐという感じで。
それに対して教授は、「つまり君はわたしに〇〇と言うつもりなのか?」と、彼女がとっさに「いいえ、もちろんそうじゃないんです」と返さざるを得ないような言い方をした。
このエピソードの後、ジャシンダはもう二度と発言はしまいと心に決め、しっかりと勉強はしたものの、静かにひとりぼっちで過ごし、留学期間を終えたそうです。
なぜこのエピソードをずっと考え続けているか
オーディオブックのこの部分を聴きながら、心臓がドキドキとしてしまいました。そして、最初にこの部分を聴いた日からもう何週間もたち、紙の本が届いてこのエピソード箇所に印をつけてなお、しばらく経った今に至るまで、何度も何度もこのことを考えています。
なぜでしょう?
一つには、オランダで大学講師として勤務する中、学生に「もっとはっきりと言うべきだったかもしれない」と後になって感じることが結構あるからです。
上のエピソードに出てきた教授、学生の言うことにただ頷いていただけの教授、彼の頭には、心には、何が去来していたんだろう。本当は言いたいことがあったんじゃないだろうか。でもあのような大惨事・大事件の直後、学生の言葉をそのまま受け入れるしかなかったのかな、と思ってみたりしています。
講師になってもうすぐ丸四年、以前は「かもしれない」だったのが「言うべきだった」とはっきりと感じることが今は多いです。一方で、はっきり言えるようになってきたことも確かなのですが、その言い方を後で振り返って後悔したりすることもあります。
もっとはっきり言うべきだったかも、と感じるのは、学生の発言に少し「問題がある」と感じたり、「それは違う」と思った時です。
まず言っておきたいのは、答えのはっきりしていることについて学生が間違ったことを言った場合には何の躊躇もなくはっきり言えるのです。例えば、「世界人権宣言という人権条約が・・・」と学生が言ったとしたら、「厳密にはそれは違う」とはっきり言えます。はっきり言うことがむずかしくなるのは、学生の「意見」についてです。
上の、ジャシンダの例ほど明らかではなくても、「そんなふうに考えることは改めた方がよい」と言った方がよいのではないか、と思う場面が時々やってきます。
また、「言っていることは筋が通っているけれども、必ずしもそれがいつも通用するとは限らないよ」、というような場合、あるいは、「(講師である)私が言っているのはそういうことじゃないんです」という場合や、「そんなどこかで聞いたような綺麗ごとはやめて、あなたの言葉で言ってみてくださいよ」と言いたい場合。これらが私にとってはかなり言いにくいことなのです。そういう場面において、きちんと言いたいこと、いや「言うべきこと」を言っているかどうか。これはかなり耳の痛い質問です。
つい最近も、重ねて何度かそういう場面に遭遇したのです。ジャシンダのエピソードにドキドキしたのはそのせいでしょう。
言うべきことを、しっかりと揺るぎなく言う
最近読んだある新聞のオンラインの記事に、
「人と同じことを話すな。よく考えろ。自分の言葉で話せ」
と教えてくれた大学の先生のことが書いてあり、この先生のようになりたい、ならねば、と感じました。でも、この先生の時代と場所(日本)と違い、私が講師をしているのはオランダです。学生はオランダ人ばかりではありませんが、それでもここの若者に上のような言葉が通用するでしょうか・・・。
表現の仕方、話し方を変えれば通用すると思います。上のいくつかの場面に当てはめてみればこんな感じになります。
「興味深い視点をどうもありがとう。その一方で、私は今あなたが言ってくれたように考えている訳ではないのです。というのは、〇〇という場合もあるからです。あなたが共有してくれた、△△という考え方はよく聞くし、世の中では主流で、こういう良いところがある。その一方で、ああいう難しさ(あるいは欠点)もあるのです。そういうところに気づきたいものですね。いずれにせよ、考えを共有してくれたことに感謝します。」
日本語で書くとなんか、「そこまでしなくても」って感じがしてきますが、それはきっと、少なくとも私自身が大学生だった時にそんな態度で接してくる教授などいなかったからでしょう。今はどうなんでしょうか。今でも、「人と同じことを話すな。よく考えろ。自分の言葉で話せ」で通用しますか?
いつでも、どんな時にも、こういうふうにしっかりと、揺るがずに言うべきことを言う講師でありたいと思います。
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