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師から学ぶ:基礎知識の価値

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  • 6月7日
  • 読了時間: 7分
Books of Confucius
「論語」の日英本

[この日本語ブログ記事は、私自身が先に書いた英語記事を、AIの力を借りて日本語にしたものです。AIが日本語に翻訳した原稿にかなり私が手を入れてはいるものの、日本語としての流れにやや不自然さが残る上、私の意図する意味合いや雰囲気と異なる部分もやはりかなり残ります。ブログ記事をお届けするタイミングを優先して公開しております。一方、英語の方には書いていない内容を一部付け加えています。]


元外交官のゲスト講義

先日、オランダの元外交官であり友人でもあるトン・ファン・ゼーランド(Ton van Zeeland)氏が、私の勤務する大学でゲスト講義を行ってくれました。これまでにも何度かお願いしたことがあるのですが、彼の講義はいつも刺激的です。ユーモアと機知に富み、時折散りばめられる鋭い洞察が、思考を促し、楽しい時間をもたらしてくれます。


ゲスト講義

今回の講義の中でトンは、現代における外交の質の低下、そしてその背景にある基礎知識の欠如について語ってくれました。


中国の格言

トンの講義の間、そしてその直後から今に至るまで、私は以下の中国の格言のことを改めて思い出しています。


師傅領進門,修行在個人

"The master can lead you to the door, but the practice is up to you."


出典ははっきりしないのですが、中国の古い格言ではあるようです。


この言葉の本来の意味は次のようなものでしょう:


師から基本を学ぶことはできても、どこまで成長するかは自分の努力次第。


私はこのことわざには、師から教わった基礎を持たずに独自の方法に頼るだけでは、本質的で深い知識を見落とすリスクがあるという意味も含まれていると思っています。


本当に深い知識やスキルは、自己流の独学だけで身につけることはできないのではないでしょうか。その道を極めた先人から学ばずしては得られないものがある、と思うのです。そうしないのと、表面的な理解や自己満足、(実はそうではないのに)自分はプロとして確立した、というような錯覚に陥ってしまうのではないでしょうか。


もちろん、独学で努力を重ね、結果的にその分野で高く評価されている人もたくさんいます。その彼らに何か問題があると言いたいわけではもちろんないです(というか、問題があるのかどうか私には分かり得ないです)。ただ、師の目によるフィードバックを得ながら築かれた専門性と、完全に自己流で育てられた専門性とでは、やはり何かが違うのではないかと思うのです。


私が大切にしているもう一つの教えに、孔子の有名な言葉があります:


學而不思則罔,思而不學則殆

"To learn without thinking is confusing; to think without learning is dangerous."


手元にある日本語の本には、このように訳されています:


「外からいくら学んでも自分で考えなければ、ものごとは本当にはわからない。自分でいくら考えていても外から学ばなければ、独断的になって誤る危険がある。」


さらに自分なりに解釈するとこんな感じになります:


いくら外から知識を得ても、自分で考えなければ本当の理解には至らない。逆に、いくら自分の頭で考えていても、他者から学ばなければ独りよがりになってしまう危険性がある。


これらの言葉は、私にとって一種の「座右の銘」のようなものになっています。特にここ数年、コーチング、ファシリテーション、高等教育機関での講師という仕事するにあたってこれらの道の学びを続ける中で、時々意識してきたことです。


振り返ってみれば、人道支援や国際開発の現場で働いていた頃にもきっと当てはまった知恵だったと思いますが、そのときは意識していませんでした。


それにしても、なぜこれらの教えが繰り返し思い出されるのでしょう?


本物の師から基礎を学ぶこと

おそらく、それは現代に広まりつつある(ように思える)「手早く表面的な知識やスキルを身につけ、うまくやり過ごし、クリエイティブに振る舞えば、短期的には成功できる」という風潮と関係しているのかもしれません。そうすれば「時代のスター」としてもてはやされるかもしれません。でも、私はそのやり方にはどこか本質的な問題を感じてしまうのです。


教育の現場でも、教科書や指定されたテキストをきちんと読まなくても、インターネットで情報を拾い集めてそれらしく論を組み立てれば、試験にパスし、単位は取れてしまうかもしれません。でも、そうやってやり過ごせればそれで良いのでしょうか?そんなやり方では真に大切なものを習得せずに終わってしまう、と私は感じます。


そんなふうに考えていた矢先、トンさんのゲスト講義の翌日にうちにきてくれた美容師さんとの会話で面白いやりとりがありました。この美容師さん、ひろさんにはここ一、二年、ヘアカットをお願いしています。


私にとって、ヘアカットはかなりこだわりのあるもので、「この人は」と思える日本人美容師以外には任せたいと思えないのです。25年以上海外に暮らしていても、日本人以外にヘアカットしてもらったことは多分数回しかありません(あ、例外ももちろんあります。今に至るまで、日本人を含めても「この人がやはり最高だった」と思えた一番の美容師さんは、2001年の夏に当時住んでいたコソボからバスで訪れたセルビアのベオグラードのホテルの美容室に勤務されていた、確かセルビア人の美容師さんでした。素晴らしい腕前でした)。


ひろさんが今回、何気ない会話の中でおっしゃった一言が印象に残りました。「基本をまずきちんと学んだ上で、それから工夫をしていくことってやっぱり大事なんですよね」と。 最初から自分流でクリエイティブにやろうとする美容師もいるけれど、そういう人のスタイルにはやはりどこかしっくりこないものがある、やはり基本がないからだと思う、と。


トンさんの講義とひろさんとの会話から、今までも何度となく思い返してきたことを改めて実感しました。独学で努力することの素晴らしさはもちろん変わらない、でも、本物の師から学ぶこと、そして基礎をしっかりと学ぶこと、これは決して省略すべきことではない、ということ。


たとえ、それを省略することが普通だと思われたり、自己流のプロがもてはやされる時代にあっても。


二月のスキーでの実感

今回思い出したこの二つの格言、実は二月の末に「これは」と思う経験があり、その時にも実感していました。


私のスキー歴は五年。スイス人の旧友たちとの合流で五年前に「トンデモ体験」をした後、一念発起して部活動とばかり近所の屋内スキー場に季節を問わず通い、なんとか普通に滑れるようになりました。つまり「自己流」です。


やはりここ二、三年ほど、なんか思うようにいかないな、と感じることが多くなってきました。スキー旅行で同行者に「レッスンを受けてみるといいんじゃない?」と言ってもらい、そうだろうなあ、と思いつつも、混雑したスキー場では「思い立ったが吉日」というようにすぐにレッスンを予約することはできません。


ところが今年の二月。事情があって夫は留守番、娘と二人だけでのスキー旅行でした。選んだ先は今までのような大規模なスキー場ではなく、地元の人たちが週末にスキーに来る、というようなコンパクトなところ。週日の日中は時間によってはゲレンデにほとんど人がいない、というような素晴らしい環境だったのです。


一日目にやはり「なんかねえ」と感じた私は「ダメもと」でスキースクールに連絡を取ってみました。するとなんと、すぐその次の日くらいにプライベートレッスンの予約ができたのです。


私たちの先生はスキー歴五十年という方。レッスン前に私が「これこれこういう事情で・・・」と説明しようとすると、「あとでスキーしてるところを見せてもらえばすぐ分かるから!」と雪焼けした顔に白い歯を光らせて笑いました。


そして・・・どうでしょう・・・。レッスンが始まって20分もしないうちに、私の「なんかなあ」は解決されてしまいました。先人に学ぶに尽きる!そう思い、上の格言の重みを感じた瞬間でした。


スキーインストラクター

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